2007年3月30日金曜日

5月ライブ日程変更

5月のスプーマでのライブは、5月14日の第2月曜日になりました。

ちなみに4月は2日、今度の月曜日。もうすぐです!





今日は夕焼けがとても綺麗でした。久しぶりに、地平の向こうに沈んでいく夕日を最後まで見ました。

2007年3月25日日曜日

やっと

いやいやいや。
やっとできました。新曲。
詞、アレンジ、全て完成。
あとは、自分の歌としてモノにするようにひたすら練習あるのみですね。
ライブまであと1週間あります。
いやあ、めずらしくちゃんと余裕を持ってできた。
いつも「前の日」とか、「その日」とかホントぎりぎりだったから。でもやっぱダメですねそれじゃ。

4月2日月曜日渋谷スプーマでのライブ、是非来てください!
http://www.spuma.jp/

いや、とにかく。
素敵な曲になりました。

あ、曲名がまだなかった...

江古田倶楽部

2005年、ニジェールから帰国して最初に部屋を借りたのは江古田だった。その江古田に江古田倶楽部という渋いブルースバーがあると聞いて、すぐ遊びに行った。4月頃だったと思う。
マスターに「何か弾いてみな。」と言われ、1、2曲やると、「うちは若い人にはライブやってもらうことになってるから。」と、ライブを入れてくれた。そして、その年2005年の6月にニジェールから帰国して初めてのライブ、2年半ぶりくらいになるライブをやらせてもらった。

その江古田倶楽部で昨日、ほとんど2年ぶりになるライブをやらせてもらった。マスターは相変わらず、冗談ばかり言っているけど、的確なコメントをくれ、PAのヒカルさんは相変わらず無口だった。

新曲間に合うかな、と思っていたけど、まだ歌詞があと1行書けていない。この1行にすごく手こずったりする。こともある。

今夜は作詞だ。

2007年3月24日土曜日

風の強い夜には

今夜はずいぶん風が強い。
窓を開けると、風に運ばれて雨の匂いがする。もうすぐ雨になりそうだ。

僕が2年間暮らしたニジェールも、雨が降る前には必ず強い風が吹いた。強い風なんてもんじゃない。砂嵐だ。最初に少し水分を含んだ風が吹き始める。風が強くなるとともに空は徐々に暗くなる。大人たちは外に出て風の匂いを嗅ぐ。彼らは、その風が雨を運んでいるか、風だけなのか、匂いで分かる。気がつくともう数百メートル先に、赤茶色の大きな砂の柱が渦巻き、近づいている。そして、それはあっという間に村を飲み込む。大粒の雨を降らせることがほとんどだが、時折気まぐれに風だけの時もある。

一年の間に4ヶ月だけある雨期。8ヶ月の間、死の世界と化した大地に命を吹きかえらせる雨。その雨を運ぶ風。その風の匂いに一喜一憂する人々。

そんなことを思い出した。

2007年3月19日月曜日

さくら

今日、家までの帰り道、川沿いの桜並木を眺めて自転車をこいでいたら、桜の花が三つ、咲いているのを見つけた。

自転車を止めて見とれていたら、もう一台自転車をこいだおじさんがやってきて、息を切らしながら、「おっ!咲いてるっ!?」と駆け寄ってきた。なんでもおじさんは、この川のずっと上の方から咲いた桜がないかを探して下ってきたそうだ。
「まだ咲いてないかなって、ずーっと探してきたのよぉ。咲いてるねえ。これだけだよ。これが一番早いねぇ。」と満面の笑みで桜の花を眺めていた。
「そうですかぁ。」と、たまたま見つけた僕は、なんだかとても得した気分だった。
なんでも、「靖国神社の桜も昨日三つ咲いたらしいけど、六つ咲かないと開花宣言は出ないんだ。」とか、「桜は暖かくなっても、一度寒の戻りがないと咲かないんだ。」とか、色々教えてくれた。

川沿いにずっと並んで立つ桜の木には、もういくつものつぼみがついていて、よく見るとその一つ一つが大きく膨らんで今にも弾けそうだった。
おじさんと桜に別れを告げてまた自転車をこぎ始めた時、「よし、俺も頑張ろう。」、となぜかそうつぶやいた自分がいて笑ってしまった。

2007年3月15日木曜日

4月2日月曜日 Live@Spuma!

4月2日月曜日、渋谷スプーマでのライブ内容が決まったようです。

Open19:00~ / Charge ¥1000 + Food & Drinks Order

Live Act :川上 資人/19:40~
浜本亮&神谷洵平/20:40~

http://www.spuma.jp/

久々の2マン!
演奏時間が長いです。
ここ最近出演者3組の中でやることが多かったので、久々の2マンは僕としてはとても嬉しい!
「あぁ~、この曲もやりたいけど、でも演奏時間を考えるとこの曲、今日はカットしないとなぁ。」と断腸の思いで演奏できずにいた曲も、今回4月2日は演奏できそうです!

そして今まさに現在進行形でできつつある曲がホント、いいのです!
是非みなさんに聞いて欲しい!一緒に楽しんで欲しい!
そんな曲に仕上がりつつあります。

4月2日、是非渋谷スプーマへお越しください!

2007年3月12日月曜日

We must hold to what is difficult(より困難な方へ) ~ライナー・マリア・リルケ~

中学生の頃、詩を読むのが好きになった。

新宿の紀伊国屋の二階に詩集のコーナーがあって、よくそこへ行って適当に詩集を手に取りぱらぱらとめくり、気に入ったのがあれば買っていた。
アレン・ギンズバーグ、中原中也、アルチュール・ランボー。

そのときに出会ったのがライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke)だった。
ぱらぱらとページをめくり、最初に目に入った詩のタイトルが、
「放蕩息子の家出」
出だしの言葉が、
「錯綜したことの全てを捨てて今、出てゆく」
学校も家も、世の中何もかもが嫌いで、なぜかいつも何かにむかついていたこの頃の僕は、「おお~!これはかっこいい!」となんだかとても興奮したのを覚えている。
他には、
「幼年時代」
というタイトルで、
「いつ果てるとも知れぬ学校の、退屈な一日の長い長い不安と時の流れるのをただ待っているだけ」
というのもあった。
友達もなく、学校嫌いだった僕はこの詩にも「おお~!分かる分かる!」といたく感動したのを覚えている。

リルケの詩集、著作は今でも手もとにあり、よく開く。

最近Wikipediaをみていたら、著名人の引用だけを集めた"Wikiquote"というのがあり、そこにいくつかのリルケの言葉を見つけた。

人は、(因習も手伝って)物事の解決をできるだけ安易なもの、その中でもさらに安易なものに求めようとする。

しかし、私たちはより困難なものを拠りどころとしていかなければならないということは明らかなことだ。

全ての生きているものはそうして生きている。自然界の全てのものは、独自の生き方で成長し、そして自己を守る。典型的、自発的に、それらは全てをかけて困難を受け入れ、そして、戦う。

私たちはほとんど何も知らない。けれども、困難なことを拠りどころとしていかなければならないということは決して私たちを裏切らない疑いのない事実だ。

孤独であることは良いことだ。なぜなら孤独は困難なことだから。困難であるということは、私たちがそれを進んでするということの理由とならなければならない。

愛することも良いことだ。愛は困難だから。一人の人間が誰かを愛する。多分これが私たちに課せられたことの中で最も困難で、究極の、最終の試練であり、証明ではないだろうか。
“誰かを愛する”ということの前では、他の全ての事はこのことの為の準備だったといっても過言ではない。

http://en.wikiquote.org/wiki/Rainer_Maria_Rilke

2007年3月8日木曜日

A Fight for Hope

マラライ・ジョヤ(Malalai Joya)28歳。アフガニスタン共和国国会議員。
「明日、もしかしたら1時間後、私はいつ殺されてもおかしくありません。でも、私を支援してくれる人たち、アフガニスタンの人たちのために、私はいつでも死ぬ覚悟はできているんです。」

2005年9月、タリバン支配からの解放後初めての国会議員選挙投票日の10日前、ファラー州のマラライの事務所に一人のおばあちゃんが訪ねてきた。

「2時間かけて歩いてきたのよ。一度も休まずに。あんたに会いたくて。」
百歳のおばあちゃんはそう言うと顔をしわくちゃにして泣き出した。

そしてマラライに、「とにかく、これを食べなさい。おいしいから。」と言って葉に包んだお土産を押し付けた。「これはスープに入れるとおいしいんだから。あんたに食べさせたくて持ってきたのよ。」

おばあちゃんの家族はどんな家族で、どんな人生を生きてきたのかは分からない。
しかし、おばあちゃんのとめどない涙から、イギリスの圧制、独立後の軍事クーデター、ソヴィエト侵攻、そしてタリバン支配というアフガニスタンの苦難の歴史を必死に生き抜いてきたのだろうということがうかがえる。
実際、マラライが戸惑うのもかまわず、「私はね、こう見えてもムジャヒディンとしてソヴィエトと戦ったのよ。地雷の埋め方をね、見せてあげる。」と言って、突然彼女のオフィスの床に腹ばいになって地雷を埋めるまねをして見せた。
しかし起き上がってすぐ、「情けないねえ。本当に情けないよ。」と言ってまた泣き出してしまった。
マラライには、「そんなことありませんよ。おばあちゃんみたいに立派な人はなかなかいませんよ。」と言って慰めることしかできなかった。

おばあちゃんは32年ぶりに選挙があるということ、女性も投票できるということ、そしてマラライという若くて信頼できる、心優しい候補者がいると聞いて山奥の村から州都まで投票のために出てきたのだった。

おばあちゃんが信頼を寄せるマラライは1979年にムジャヒディンの戦士のもとに生まれ、4歳でパキスタンに難民として逃れている。パキスタンで教育を受け、19歳の時にタリバン政権下のアフガニスタンに帰国している。それから、タリバンを公然と批判しながら、孤児院と診療所の経営を始めた。
彼女をアフガニスタン中、世界中で有名にしたのは、2003年の国民大会議で「議長、議長、若い世代にも一言言わせてください!」と叫んで、特別に3分だけ発言を認めさせた時だった。

「正義のために命を落としたムジャヒディンたち、殉教者たちに敬意を表します。」と前置きし、
「私が今日ここで問いたいのは、なぜ新しい国民の代表が集う場に、私たちの国を荒廃させた張本人たち、軍閥、麻薬王たちがいるのでしょうか?彼らは今すぐ裁きを受けるべきです。罰を受けるべきです。例え国民が彼らを許したとしても、歴史は許さないでしょう。」と彼女は言った。

一瞬静まり返った議場は、直後、大混乱となり、武器を隠し持っていたこれらの議員たちは彼女を殺そうと詰め寄ったが、国連の警護に阻まれ彼女は難を逃れた。

これ以降、彼女は4回の暗殺をすり抜け、現在は2,3日ごとに住居をかえるという生活を続けている。

しかし彼女はこう言う。

「脅しに屈して、私が小声で話し始めるようなことはないでしょう。なぜなら私はアフガニスタンの人々の苦難の象徴で、彼らのために働いているからです。もし私が自分が信じるもののために殺されることになるならば、喜んで私の血を解放の為の道標としましょう。そして私の言葉を次の世代のための、革命の手本としましょう。」

「彼らは私を殺すでしょう。しかし私の声を殺すことはできません。なぜならそれはアフガニスタンの全女性たちの声だからです。花を刈ることはできても、春が来ることを止めることはできないのですから。」

From the Documentary Film "Enemies of Hapiness"
http://www.enemiesofhappiness.com/

CNN, A Tale of Two Women
http://edition.cnn.com/CNNI/Programs/untoldstories/blog/index.html

Wikipedia, Malalai Joya
http://en.wikipedia.org/wiki/Malalai_Joya

2007年3月6日火曜日

ありがとうございました。

昨夜のライブに来てくださったみなさん。どうもありがとうございました。

日に日に暖かくなっていますが、みなさん油断して僕のように風邪などひかないように気をつけてください。
寝込んでしまいますよ。
ネコンデルタですよ。
あ、しつこい?
いやあ結構面白いと思うんだけどなあ。

次回のライブは4月2日、そして5月7日の月曜日です。

その前にどうしても歌が聞きたいという方は僕を花見に呼んでください。花見出前ライブをいたします。
ちなみにあともう2週間で咲いてしまうそうですよ、今年は。早いですね。

Set List

1.firefly
2.転がる石に苔はむさない(Superstition)
3.まっすぐな君に
4.君が思うほど世界は汚れたことばかりじゃない
5.果てしない旅
6.タビダチノ唄
7.夜空の星に~モッスィへ~

2007年3月1日木曜日

As long as we take the next step.

月曜日に書いたブログの中で、

"It’s not necessary to see entire staircase, as long as you take the next step. (階段のステップを一歩ずつ上っている限り、階段全体を見る必要はない。)"
     - Martin Luther King Jr.

と書いたが、今のアメリカの大統領選挙を見ていると本当にそう思う。
民主党の大統領候補として今、ヒラリー・クリントンと共にレースのトップにいるのが黒人候補のバラク・オバマ46歳だ。

42年前の今日、どれだけの人がアメリカ合衆国大統領に黒人がなるかもしれないと真剣に考えただろう。

当時、アメリカの黒人には投票権すらなかった。
しかしキング牧師の言葉通り、彼らは着実に階段を一段ごとのぼり、その歩みを緩めることはなかった。

1965年8月6日、全ての黒人に投票権が認められ、それから黒人の警官が生まれ、そして黒人の議員が選出され、黒人の市長が生まれた。
そして43年目にして、もしかしたら黒人の大統領が生まれるかもしれない、というところまで来た。

道のりの途中には、この言葉を残したキング牧師、もう一人の活動家マルコム・Xは凶弾に倒れ、その他にも数え切れない人たちが犠牲となった。

それでも彼らは歩みを緩めることなく、一歩ずつ着実に進んできた。

たしかに未だに黒人の社会的地位は白人に比べ圧倒的に低い。
けれども、42年前には想像することさえ難しかったような進歩を遂げたことも事実だ。

この事実を見ると、強い信念を持ち、焦ることなく一歩ずつ進めばきっと世界はよくなる、そんなふうに信じられる気がして勇気付けられる。

Nothing is impossible, as long as you keep believing.