2007年8月19日日曜日

音楽と仕事と私。そしてハンモック。

いやいやいや。暑い日が続いております。

暑い夜が続いております。

あんまり暑いので、ある夜僕はどうしたことかと思い、ベランダの外に出てみました。そしたら、明らかに部屋の中より、4度は涼しかった。僕はもう衝動的に、ハンモックを押入れから引っ張り出し、ベランダにつるしましたよ。夜中の一時に。取り付かれたように。

それからはもう、毎晩ハンモックで風に揺られて寝ています。

メキシコのユカタン半島にメリダという港町があって、ずいぶん前にそこで買ったハンモックですが、まだまだ現役です。
ニジェールとか南の国なら、外に出てハンモックに揺られて寝たいな、と思えば一年中いつでもできますが、さすがに日本では、秋、冬、春の夜は少し肌寒いので、その時期はやはり家の中で眠りたいものです。
そう考えて、「外でハンモックに揺られながら寝られるから、この暑い夏もいいかな」なんて思っております。...ようにしております。

というわけで、ライブのお知らせですが、最近新曲もたまってきたのでCD制作の方に力を入れることにして、ライブは少しお休みすることにしました。
そして、その完成したCDをたずさえてまたガンガンやっていこうと思います。
ですので、それまで少し待っていてくれると嬉しいです。

ところで、この前の水曜日から塾で中学2年生に英語を教えています。
いやあ中学生、おもしろくてかわいいです。
昨日は授業が始まる前に教室で準備をしていたら、元気良く入ってきた女の子が開口一番、
「先生初恋いつー!?」
と聞いてきました。
「そうだねえ、いつかなあ...」と考えながら、友達から借りっぱなしになっている黒いリュックから教材を出し、Volvicのペットボトルに入れてきた麦茶を教壇に置いたりしていたら、すかさず
「先生、スーツ着てそのリュックしょってくんの?」
「そうだよ。」
「かわいいーー! しかも、ボルビックに自家製麦茶だしね。」
と突っ込まれました。

英作文の問題では、「小錦は僕の5倍重い」という文があり、生徒に
「先生、コレなんですか?」と聞かれました。
「コニシキだよ。知らない?」
と聞くと、また、
「なんですか、それ?」
と聞き返されました。かろうじて、分かった子がいて、
「あ、あのウクレレ弾いてる人!」
と言っていましたが、「相撲取りで大関の小錦」という認識は全くないようでした。

その後に、英語で「~年代」という言い方を説明しようと思い、
「例えば、80年代は80sと言って、80の複数形で書きます。みんな80年代生まれでしょ?」
と聞くと、
「違うよー!94年だよー!」
と言われてしまいました。

いやいや、94年生まれですよ。94年って言ったらみなさん何してましたか? その頃に生まれたわけですよ。凄いですね。ってべつに凄いわけじゃないか。

ところで、また話は飛びますが、

ついこの間、以前勤めていたあしなが育英会でお世話になった山北さんという方に一年ぶりに会いました。
「おー川上、最近どうしてんだ。」と聞かれました。
「はい、来週から塾で英語を教えます。」と言うと、
「またそうやって安易にお金を稼ごうとして!だめだよ、音楽やんなきゃ。」と言われてしまいました。
僕はとても感動しましたよ。なんでかって、普通、世間一般の人はみんな「いい年して、仕事もしないで、音楽なんかやってる場合じゃないでしょ。早くちゃんとした仕事見つけなさいよ。」と言います。世間の多くの人がこういう価値観が一番!と信じて疑わず、そうではない生き方をしている人を正そうとするその親切心には本当に驚いていたところです。
ですから、山北さんのように世間とは正反対の発想で、「安易にお金稼ごうとして、ダメだよ」と言ってくれることは、驚きであり、本当に嬉しかったわけです。

いやいや、本当ですよ。
本当にその通りです。
肝に命じますよ。

2007年8月9日木曜日

上高地・穂高

久しぶりに、母と二人で旅行に行った。

上高地と穂高。

2年前、アフリカから2年ぶりに日本に帰ってきて最初のゴールデンウィーク、友人と上高地と穂高に行く計画を立てたが、冬山の道具を揃えたりとか色々面倒そうだったのもあり、その話は立ち消えになり、結局その年は八丈島へ行った。

それから上高地と穂高にはずっと行ってみたいと思っていた。

母は今までに何度か上高地に行ったことがあり、大学時代には穂高連峰を縦走したこともあるそうで、土地に明るく、なにかと助かった。

バスを降りて、最初に着いたのは大正池。
エメラルドグリーンの池の向こうに雪を抱いた穂高連峰が見えた。





初日は穂高連峰のふもとの徳沢という所でテントを張った。



翌日、まずそこから涸沢という氷河に削られた谷まで登った。山道を800メートル近く登り、標高2000メートルを越えたあたりから雪渓が見えてきた。谷に入ってから涸沢のヒュッテまではその雪渓を登った。雪解けの水が雪渓の下から音をたてて流れていた。これが梓川に注ぐのかなと思った。



息を切らし、滑ったりしながら雪渓を登り、途中の岩場で休憩をした。そこでうちの近所で取れたトマトを食べたら、今まで食べたトマトの中で一番おいしかった。

昼過ぎにやっと涸沢ヒュッテに着き、穂高を見上げながら昼食をとった。母はそこの山小屋に宿をとり、僕は一気に奥穂高岳まで登ることにした。


涸沢から山頂までは、それまでとは一変して、崖に這いつくばり、岩に手をかけながら登っていく道のりになった。まあ、道などなかったが。「ここから落ちたら死ぬな。」というところも何ヶ所かあった。


実際、翌日下山した時に涸沢の長野県警山岳救助隊の小屋の前にある掲示板に「山の事故:死亡1名」と出ていた。2,3日前にこの付近で岩を踏み外したか、手を滑らせたかで滑落した方が亡くなったそうだ。

涸沢から900メートル登った山頂付近、急峻な崖でふと顔を横に向けると、小さな黄色い花が咲いていた。その花は、吹き付ける風の中、木も生えない標高3000メートルを超える山の中でひっそりと咲いていた。


天候にも恵まれ、奥穂高岳、涸沢岳、北穂高岳にも登り、とても素晴らしい3泊4日の山行だった。