2006年7月21日金曜日

次回は、9月5日Spuma!

みなさん、またまたこぞってお越しください!

2006年7月5日水曜日

ミャンマーの人々のこと

僕の友人が作った番組、「BSドキュメンタリー・国境地帯の避難民を救え~シンシアと国際医師団~」を見た。

今、ミャンマーとタイの南北1000キロにわたる国境地帯には200万人にのぼるミャンマー難民が暮らしている。

「8888 Uprising(8888民衆蜂起)」
1988年8月8日、当時のミャンマー軍事政権に対して、ミャンマー国民は民主化を訴えた。この蜂起はしかし、その年の9月18日、軍事政権の武力弾圧によって幕を閉じた。この武力弾圧により、数千人の市民が殺され、多くは隣国タイとの国境地帯のジャングルに逃れた。

そして現在も政府軍と反政府軍による武力闘争は続いており、今年の3月から5月までの間だけでも新たに2000人のミャンマー市民が家を焼かれ、隣人を殺されながら、タイ国境地帯に難民として逃れた。

シンシア・マウンさん(46)は自身も18年前、この弾圧を逃れ国境地帯のジャングルに辿り着いた難民だ。しかし、難民キャンプで悲惨な暮らしを送る人々を目にし、彼女は医師として、診療所を開いた。現在彼女の診療所では、医療から見捨てられた難民たちが無償で治療を受けることができる。
この難民キャンプ、およびその周辺部のジャングルに難民として暮らす人々の生活環境は劣悪で、マラリアなどで多くの命が失われている。まさに見捨てられた人々だ。
シンシアさん、そしてこの診療所のほとんどのスタッフは自身も難民で、同じ立場の隣人を救うために献身的な活動を続けている。

僕は、村を焼かれ、家を焼かれ、隣人、友人、家族を殺され、このタイ国境地帯のジャングルに暮らすミャンマーの人々のことを何も知らなかった。

僕には何ができるのか?
僕は何をしているのか?

それを考えさせられた。

僕らの願い

僕らの願い。

それはやっぱり一つしかなくて、今苦しんでいる人が、笑顔を取り戻せること。
子ども達が、笑顔でいられること。

そのために僕らは何ができるのか? 何をするのか? それが今僕に突きつけられた課題だ。

「僕らの願い」

この歌は、去年2005年の11月22日に作った歌だ。
この日僕は職場のインターネットで、会議の資料のデータとして、2003年3月20日の米軍によるイラク侵攻以来、何人の人がイラクで亡くなったのかを調べていた。その時、僕の目に一つのニュースが飛び込んできた。
バグダッド北部のバラドという町で、親族の葬儀に参列したあと、夕闇迫る幹線道路を一路家路へと車を走らせる9人家族に向かって、米軍が一斉に発砲し、5人が亡くなったというニュースだった。そのうちの3人は、まだ1歳と2歳と3歳の子どもだった。

僕は悲しくて、悲しくて、やるせなかった。

仕事を終え、7時頃家に帰った僕は、向かいのスーパーに夕飯を買いに出かけた。すると、3歳と4歳くらいの男の子がお母さんと買い物に来ており、元気に店の中を走り回っていた。3歳くらいになる弟の方は、覚えたての言葉でおしゃべりできるのが嬉しくて仕方ないようで、一心にお母さんとおにいちゃんに何かを話しかけていた。アイスクリームをお母さんに買ってもらった二人は、とても嬉しそうで、それを大事そうにビニール袋にしまい、何か相談事をしていた。そこに一人のおばあちゃんがやって来て、幼い兄弟を見るなり、顔を笑顔でくしゃくしゃにして、「かわいいねえ。かわいいねえ。いくつ? いくつになったの?」と、話しかけていた。小さな兄弟も、お母さんも、おばあちゃんも、レジのお兄さんも、みんな笑っていた。みんな幸せそうだった。

僕はこの光景を前に、どうしても昼に目にしたイラクのニュースが思い出されて、胸が一杯になって、涙がこぼれそうになった。

みんな、これが、この笑顔が、子どもの笑顔が、たった一つの、かけがえのないものだって知ってるのに、どうしてこんなことが起こらなきゃいけないんだって思うと、やりきれなかった。

家に帰って、夕飯を食べていると、やっぱり涙があふれてきて、僕は横にあったギターを手に取った。そうしてできたのがこの歌だった。


たしかに、僕らは無力だ。
どうしようもないくらい無力だ。
でもだからといって何もしなくていいのか?
あきらめていいのか?

僕には何ができるのか?
それが今、僕に突きつけられた課題だ。

2006年7月2日日曜日

7月2日の夕空



今日の夕方、うちの屋上から撮りました。いやあ、久々にゆっくり空眺めた。