2007年7月30日月曜日

とかくに人の世は住みにくい。

昨年の暮れに越してきた今住んでいるアパートの前には川が流れていて、その向こうには公園と神社と寺が並んでいる。幸いなことに、緑の少ない東京でも、さすがに木のない公園と神社と寺などというものはあまりないようで、うちの窓からは風に揺れる公園の木立が眺められる。
嫌でも木が目に入ってくるので、春の初めには、裸の木に初めて若葉が芽吹いた日に気づいたり、夏の初めには、初めて蝉が鳴いた日に気づいたりする。ちなみに今年は、この前の土曜日、7月21日に初めて蝉が鳴いた。
今日みたいな雨の日は、葉の緑がいっそう濃くなり、葉の濃淡が面白い。反対に、快晴の光の強い日には緑だけだとばかり思っていた葉の中に、オレンジや黄色があったりするからそれもまた面白い。

そんな風に窓の外を眺めたりしながら、漱石の草枕を読んでいた。

「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、絵が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにチラチラするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命がくだる。あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするが故に尊い。

世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂い、いよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。

なるほどいくら詩人が幸福でも、あのひばりのように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳には行くまい。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲しみも多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。

詩人に憂いはつきものかも知れないが、あのひばりを聞く心持になれば微塵の苦もない。菜の花を見ても、ただうれしくて胸が躍るばかりだ。山の中へ来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足がくたびれて、うまいものが食べられぬくらいの事だろう。
ただこの景色が――腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。自然の力はここにおいて尊い。吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。」

さすがは文豪、漱石先生。
僕も、“腹の足しにもならない”窓の外の木立と、そこになぜか住み着いている場違いなオウムに日々癒されている。